「忌服(喪中)に関して、なぜ誤解(曲解)が多いのか?」

 最近の出来事ではありますが、身内にご不幸があって「むかしから一年間は神社に出入りしないと聞いている」という方がおられます。しかしそれは本当なのでしょうか。「むかしから」といいますが、平安後期から鎌倉時代にかけて確立されたと思われる禁忌の諸規定や江戸時代、明治時代の服忌令にも1年などという記載はありません。我が国の象徴たる天皇陛下でさえ50日の喪があけると宮中の祭祀に復帰されておられるのに、ほんとうに「むかしから一年間」なのでしょうか?

実は一年間神社の出入りや神棚の参拝を控えるという風習はどの時代にもなく、終戦後10年ほどたって(昭和30年ごろ)から流布されたデマなのです。

現在、全国の神社を統括する神社本庁ではご家庭にご不幸(死去人が出た場合)があって神社や神棚の参拝を控える期間を全国統一して50日間と定めています。

ここに鎌倉時代に編纂されたとみられる「諸社禁忌」の一部をご紹介します。


明治七年に太政官布告の「服忌令(ぶっきれい)」が出されます。これによると忌(き=いみ)と服(ふく)とは明確に区別され、忌は神社への参拝、家庭のまつりを遠慮する期間、服は精神的に故人を偲ぶ期間で、以下のように記載されています。


忌(神社参拝を控える期間)は最高でも父母の50日間です。
ではなぜ前述のような誤解がうまれたのでしょう? いくつかの理由が考えられます。

1 葬儀には大変な経費が掛かり、経済的な事情により、その年の祭礼の神賑わい行事、とりわけ祭り衣装や客の接待などを控えたものと神社への参拝そのものと混同した (子供が神輿や山車に携わらぬよう「1年は神社へ行くな」といったものが曲解されていった)    

2 昭和20年以降戦争の影響で伝えてゆくべき壮年層が極端に少なかった時代があります。「1年神社へ行かない」などといいだす輩が出現したのはちょうどその10年前後(昭和30年ごろ)です。

3 喪中の年賀欠礼はがきが流行した。~これもちょうど昭和30年ごろからです。これによって喪中=1年間という間違いが広まったと考えます。最近の喪中はがきは「妻の母が」や「弟の妻の父が」など目に余るものがあります。喪中とは喪服を着ている期間のことです。この人たちは1年間喪服を着て食肉をせず、仕事もせず、家族以外の人と接触を断っているのでしょうか?

4 もうひとつ重大な理由は神職自体がこの「忌服」の問題にあまりにも無知であったのと、この話にふれなかったことです。
明治のある時期まで神式の葬儀が国から禁止されていたことで葬儀(その後の先祖の祭も含む)全般を仏教の僧侶にゆだねてしまっていたこと。また「ハレ」の祭の席で葬儀云々の話がはばかられたことです。われわれ神職にも大いに責任があり、正してゆかねばなりません。

<ご参考>

神社本庁 服忌について

神道青年全国協議会/知っておきたい豆知識/服忌について

 

補足 「ハレ」の祭と「ケガレ」

穢れ(ケガレ)は「気枯れ」といい、気力がなくものすごく落ち込んだ状態をさします。(「穢れ」と「汚れ」では意味が違います)

「ケガレ」(気枯れ)の状態をはらす(祓う)のが「ハレの日」即ち「まつり」です。(むかしは不幸があって50日目に神主が家に赴き「忌明けの祭り」をし、その後家族全員で氏神様に詣でるのが通例でした。祖先の霊は氏神様の杜に帰られると知っていたからです)

逆に気枯れの状態が積み重なってゆく最たるもの、それが死という状態です。

近親者が亡くなれば誰でも悲しみ、落ち込み、こもりがちになると思います。しかしいつまでも悲しんでばかりはいられません。人は平常の生活に戻らなければなりません。

平常な生活とは、物を食べ、服を着、屋根がついた家で寝て、糧(お金)を得るために働くことです。その生活の中で常に恩恵を受けているのが「氏神様」であり、神棚に祀られる「天照大神様」であります。(平常な生活に戻っていながらなぜ神様にお参りすることだけを1年間も拒むのでしょうか?)

「敬神崇祖(けいしんすうそ)」という言葉は神社神道の根本を指すものです。「敬神」と「崇祖」は別々ではありません。氏神様とはもともと地域全体のご先祖様を個人ではなく地域という集団で祀る場所であったのです。

もともと日本人が持っていた「敬神崇祖」というすばらしい観念が知らずしらず捻じ曲げられていくような気がして残念でなりません。

どうぞこのホームページに訪問していただいた皆様方には常に氏神様を敬い正しく祖先をおまつりされますよう、切に願うしだいであります。